薄暗いうちから目が覚めた。カーテンを開くと、ライトを照らした小さな漁船が次々と港に帰ってきていた。まだ太陽は水平線から出ていなかったが、東の空が明るかった。

五島産の椿が有名ブランド化粧品に

夜明けの福江港 6時半に朝食会場に行くと、すでに多くの宿泊客が和洋とり混ぜたバイキングに並んでいた。わがツアーのメンバーの顔も見えた。そのほか、JTBの「旅物語」のバッジをつけたグループもいて、平日にもかかわらずできたばかりのホテルは繁盛しているようだった。

 8時にバスで出発する。今日もガイドは川口さんが乗り込み、最初に鐙瀬(あぶんぜ)溶岩海岸に行く。真っ黒な溶岩の海岸線と、そのうしろにある鬼岳(おんだけ)の鮮やかな緑が美しく、昭和天皇はこの景色をいつまでもながめていて、次の予定が気になるお付きの人たちははらはらしたと、来島のエピソードを川口さんは話した。

 その昔、鬼岳が噴火した際には、火口から流出した溶岩が7キロにわたって海に流れ込んだという。現在の鬼岳の標高は315メートルで、全面が緑の芝生におおわれている。
 100段ある階段をのぼって、鬼岳の展望台にあがる。青空の下、澄み切った空気がここちよかった。広い芝生の上では、五島に伝わる「バラモン凧」のたこ揚げ大会があるそうで、川口さんも優勝したことがあると自慢げに語った。

溶岩海岸をバックにして 鬼岳からバスで下りる道路脇のあちこちで椿を栽培していた。あまり知られていないが、五島列島でとれる椿油の量は日本一だという。伊豆の大島に追いつけ追い越せと品種が改良され、その努力が実って今では、資生堂の「TUBAKI」というブランドには、すべて五島の椿が使われている。資生堂の社員研修も、五島でおこなう熱のいれようだ。

 島の東の海岸線を回って、堂崎教会に行く。五島最古の洋風建造物で、赤煉瓦のどっしりした天主堂は風格がただよっていた。天主堂は有料の資料館となっていて、昔の貴重な品々が大切に保存されている。

「マリア観音」に当時の苦労をしのぶ

堂崎教会 当時の信者は迫害をおそれて、仏教に偽装してキリストを崇めてきた。「マリア観音」はその象徴で、中国などで作られた観音像をマリア様に見立てて、当時の信者たちは崇拝していたという。資料館には、大事に残されたたくさんのマリア観音や、手書きの聖書などが展示されていた。それらを見ていると、どんな迫害にも負けず信仰を絶やさなかった人々の祈りの声が聞こえてくるようだった。

 堂崎教会から駐車場に戻る途中にあるカフェ「BABY QOO」(ベイビー クー)では、看板娘の88歳のおばあちゃんがアイスクリームを売っている。カウンターから顔を出すばあちゃんから、300円でカップのシャーベットを買った。

 昼食は、道の駅「遣唐使ふるさと館」で海鮮丼をいただく。午前中の時間配分がうまくいっていないのか、レストランに着いたのが11時前だった。朝食をしっかりと食べたこともあり、とれたての魚はおいしかったが、食欲がでなかったのが残念だった。

 午後からの「キリシタンクルーズ」の乗船までかなり時間があったので、道の駅でたっぷりと買い物タイムがとられた。昨夜食べたひやむぎの細さの五島うどんや「五島麦」「五島芋」の焼酎、椿油などのお土産がずらっと並んでいた。

アイスクリームを売るばあちゃん

 妻は、五島名物の「かんころ餅」が気に入ったようで、ようかんのような大きさの一本物をお土産に、一口で食べられるものを自分用に買っていた。干したさつまいもと餅米を混ぜて作るかんころ餅は、茨城特産の干し芋にも似た味がして、茨城生まれの妻の口に合ったのだろう。

 資料館になっていた遣唐使の解説を川口さんから聞くと、ほどよい時間となったのでバスに乗り込んで福江港ターミナルへとむかった。福江港に到着すれば、ガイドの川口さんとはお別れになる。

 2日間のバスの中では、川口さんはマイクを持ってしゃべり通しだった。「ふるさとガイド」としては、話したいことはいくらでもあって、次から次へと話題が出てくるのだろう。敬虔なクリスチャンである川口さんの誠実さが伝わってくる、心温まる案内に全員で感謝した。

洞窟に隠れて暮らしたキリシタンたち

チャーター船で上五島へ 港にはフェリーや客船などが何隻か泊まっていたが、定期便はすべて、荒天のために欠航しているらしかった。そのなかで、わがツアーは、チャーター船で上五島までのクルーズに予定通り出発することになっていた。

 ところが、港で目にしたチャーター船はあまりにも小さく、荒海に出ていくにはひどくたよりなく見えた。船内の30席ほどのシートに薄っぺらい座布団が敷いてあり、一段高いところにある操舵席には、たった一人の男性船員が座っていた。舵と言っても、普通車のハンドルを一回り小さくしたくらいのものだった。操舵席の後ろには、6畳間用くらいの家庭用エアコンが、無理やり取り付けたように柱にへばりついていた。

 とにかく手作り感満載のチャーター船に命を預け、波が押し寄せる福江港を出発した。船は最初こそ大きく揺れたが、港から離れて速度をあげるにつれ揺れはおさまっていった。船酔いを心配した人もいたようだったが、さいわい具合が悪くなった人はいないようだった。

断崖のキリスト像 途中、上五島に近づいたとき、船をいったん停め、船窓から「針のメンド」を見学する。「メンド」とは方言で「穴」のことで、洞窟を前から見ると、まさしく針の穴のような縦長の形をしていた。そのすぐそばに洞窟があって、かつて迫害をうけたキリシタン3家族が、ここに逃げ隠れていたという。役人に捕らえられるまでの約4か月の洞窟での生活は、想像に絶するものだっただろう。

 やがて船は白く大きな橋をくぐり、若松港に14時すぎに到着した。上五島には若松島と中通島があって、2つの島の間をいまくぐってきた若松大橋がつないでいる。若松港には2台のワゴンタクシーが停まっていて、ガイドの上原照子さんがわたしたちを迎えた。

 上原さんも、川口さんと同じように「上五島ふるさとガイド」のメンバーで、現役時代は保育士として奮闘されていた。今は定年退職して、もっぱらわたしたちのような同年代の観光客を世話するようになった。さすがに子どもたちを相手にしていただけあって、語り口はやさしく、はっきりとしゃべってくれるので、とてもわかりやすかった。

タクシーに分乗して上五島の教会をめぐる

船室から写した針のメンド 上原さんによれば、明日から大型クルーズ船「飛鳥Ⅱ」が来島するそうで、島内の観光業者はすべて前日からそれに備えていて、使えるバスが1台もないという。上原さん自身も、そっちのガイドに回ることになっていて、わたしたちを相手できるのは今日だけだという。

 世界文化遺産への登録がなければ、大型クルーズ船が寄港することなどなかっただろう。なかばボランティアで、純粋に島の魅力を伝えてきた「ふるさとガイド」の仕事さえも、一変させてしまったのだ。

 2台のワゴンタクシーに分乗し、最初はわたしたちの車に上原さんが乗り込んで、若松大橋を中通島に渡る。総工費72億円の若松大橋は全長が522メートルあって、島民の生活に欠かせない橋となっている。橋の上から見た海の水は、青く透き通っていた。

 上五島には、29のキリスト教会があって、キリシタンは島内人口の4分の1ほどだという。これを上回って58の神社、13の仏教寺院があって、人々はこの島で昔から多様な信仰のなかで生きてきた。だから上原さんは、上五島は「祈りの島」なのだと話した。

 タクシーで10分ほど走って、最初に跡次(あとつぎ)教会に行く。高台にそびえる白い教会は1984年に建てられた。高台に上がれば、世界初の洋上石油備蓄基地の巨大な施設が、海を隔てたところに見えた。

跡次教会(新上五島町観光物産協会HPより) 石油備蓄基地は、70年代の石油ショックの教訓から、81年に国策として上五島への建設が決定された。88年に完成し、現在は、日本全体の石油需要の7日分を備蓄している。地元からは安全性への不安から、建設反対の声は多かったそうだが、政府は補助金をばらまいて反対意見を抑え込んだ。ご多分に漏れず、島の中には補助金で建てた「ハコモノ」が点在している。

 次に青砂ヶ浦(あおさがうら)天主堂を訪れる。1910年に島内出身の大工棟梁・鐵川與助(てつかわよすけ)氏によって建設された。その後、大規模な改修がおこなわれ、2001年には国の重要文化財に指定されている。

 教会の外側はレンガ造りだが、礼拝堂の内部は木造の円柱と漆喰で形づくられ、数々の教会の建設を手掛けてきた地元の天才、鐵川與助の技術がすみずみにまで発揮されていた。ユネスコからは、「世界遺産の構成資産と一体的に保存・継承していく資産」の指定をうけている。

遭難した同志に手を合わせる坂本龍馬

青砂ヶ浦天主堂 島の地図を片手に掲げた上原さんのガイドを聞きながら、有川地区にある「坂本龍馬ゆかりの広場」にむかう。海岸べりには、合掌する坂本龍馬の銅像がたっていた。なぜ合掌しているのか。坂本龍馬が薩摩藩の援助で購入した「ワイル・ウエフ号」は、1866年に暴風雨によって遭難して乗組員の多くが死亡した。

 ただちに龍馬はこの場所に駆けつけて、12名の同志の死を悼んだ。長崎の彫刻家、山崎和國氏によって2010年に完成した銅像は、その出来事をモチーフにしたものだ。手を合わせる龍馬のモデルをつとめたのは若い男性で、上原さんに言わせれば男性はこよなくイケメンだったそうで、ツアー一行のみなさんはしげしげと銅像の顔をながめていた。

 ほど近いところにある共同墓地には、龍馬が書いた碑文と避難者名を刻した墓碑がたっていた。墓の近くには真っ赤な彼岸花が咲いていて、志半ばでこの世を去らなければならなかった若者たちを偲んでいるようだった。

合掌する坂本龍馬像(長崎県観光連盟HPより) 18時近くになって、2台のワゴンタクシーは、有川地区にある『有川ビーチホテル』に到着した。3階建のホテルにはエレベーターがなく、風呂も共同だった。客室も6畳の畳の間で、かろうじてトイレは付いていたが、ウオシュレットはなく、前日に泊まったできたばかりのホテルとの落差にはがっかりした。とくに、館内は今どき珍しく禁煙ではなく、どこに行ってもタバコの臭いがついて回るのが不快だった。

 さっそく風呂に行くと、狭い浴槽に洗い場は3人分しかなかったが、今夜の男性の宿泊客はわがツアーの3人だけだったのはよかった。戻ってから妻に話すと、急いで風呂へ行ったが、女風呂は10人くらい入れる広さでゆったりと入れたという。どうやら宿泊客の男女比率を見て、浴室を適当に入れ替えているようだった。

 夕食はホテル内で食べる。前日と同じように、新鮮な魚とともに五島牛が出てきた。辛子味噌で食べるキビナ(きびなご)の刺身は、素朴な味がして絶品だった。そして今夜もまた、「五島芋」を水割りでいただいた。ちなみに添乗員の甲良さんは、今日が22歳の誕生日だそうで、さっそくみなさんで乾杯してお祝いした。

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