いよいよ最終日。五島に来てからずっと天気のいい日がつづいていた。しかし、2日後あたりから台風が近づくらしく、昨日までの青空から一転して、空全体が厚い雲におおわれていた。午後からは雨の予報も出ていた。

シロナガスクジラも泳いで来ていた五島

港に停泊中の漁船 いつものように早く起きたので、ホテルの付近をぶらぶらと散歩にでかけた。すぐ近くが有川港で、近くには神社や公園のような広場があった。広場には相撲の土俵があった。あとで聞いた話では、年に1回大会が開かれ、九州各地から力自慢が集まってくるそうだ。天気が下り坂なこともあり、吹く風もこころもち冷たかった。しばらくベンチに座って時間をつぶし、宿に引き返した。

 7時からの朝食は、焼き魚や卵焼き、漬け物に海苔などで、ご飯とあつあつの味噌汁が運ばれてきた。五島でとれた米はおいしいので、腹いっぱい食べて帰るように福江のガイドの川口さんに言われていたが、控えめに一膳だけにしておいた。品数は申し分なかったが、茨城生まれの妻は常食の納豆がないことが不満のようだった。

 日程に余裕があって、9時すぎにホテルを出発する。今日も2台のワゴンタクシーに分乗する。ガイドの上原さんはやはり来ていない。きのう別れるときに、上原さんは自分で折った折り紙に、五島の海水塩でつくった塩飴が3つ入ったお土産を、ツアーの一人一人に手渡して帰っていった。その心遣いがうれしい。

 てっきり上原さんを「飛鳥Ⅱ」に奪われたと思っていたら、タクシーの運転手さんによると、強風で船が来なくなったという。大型クルーズ船自体は、少々の風でもびくともしないが、上五島にはそのまま接岸できるような港はなく、乗船客を分けて港まで運ぶボートが、高波のために運行できなくなったのだそうだ。

捕鯨の図 おそらく島の人たち、とくに観光の関係者はがっかりしたことだろう。なにしろ、乗員乗客あわせて1,200人を超える人たちが来なくなったことは、上五島の経済にもかなりの影響があるのではないか。正直なところ、クルーズ船来島の大騒ぎに巻き込まれなくてよかったという気持ちはありつつも、ちょっとだけ心配になった。

 ホテルを出発して、坂道を上っていって「鯨見展望台」に行く。すでにパラパラと小雨が降り出していた。昔はシロナガスクジラが五島まで泳いできて、島民が力をあわせて巨大な獲物を捕らえたそうだ。その様子を記録した絵図が展望台に飾ってあった。

 鯨油だけとってクジラを捨てる欧米とは違って、日本は昔から鯨の身はもとより、内蔵から皮まですべてを貴重なタンパク源にしてきた。最後に残された巨大な顎の骨を神社に奉納するほど、五島の人々はクジラに深い敬意を表してきた。そうした文化が世界には伝わらず、日本人が残酷で野蛮な民族だと見られていることは残念だ。それにしても、かつてはシロナガスクジラがこんなところまで来ていたとは驚いた。

怖くはなく、おいしかった「地獄炊きうどん」

冷水教会 展望台を下って、上五島産品館『矢堅目(やがため)の駅』を訪れた。五島の海水で昔ながらの製法を使ってつくる「矢堅目の塩」は、島の特産になっている。ここでは、見学用の製塩工場もあって、五島の海水からどうやって塩ができあがるかを丁寧に解説してくれた。できあがる途中の塩を舐めさせてもらった。塩辛いというよりも旨味が効いていて甘みさえもあった。

 たっぷりと買い物タイムがとられ、海をながめながら少しまったりした後、鐵川與助の手による冷水(ひやみず)教会を見学する。1907年に建った木造の教会で、急な階段を上っていくと、特徴的なとんがり帽子の屋根が見えてきた。教会全体は白いが、屋根だけがえんじ色をしていた。礼拝堂は、青砂ヶ浦天主堂と同じように木造の柱と漆喰で作られていた。

 ようやく12時近くになり、『竹酔亭』で昼食となる。日程表には「地獄炊きうどん」とあり、どんなものが出てくるのかちょっと怖かったが、鉄鍋の中でうどんを茹でながら食べるというだけで、どこが地獄やねん! と思わずつっこみを入れる。

旧鯛ノ浦教会

 昼食が終ってタクシーに乗り込み、さて出発というとき、ちょっとした事故があった。食堂の駐車場が坂になっていて、運転手さんがサイドブレーキを下ろしたとたん、車がそろそろとバックしはじめ、あっという間に後ろに停めてあった乗用車にぶつかった。さいわい乗っていたわたしたちに怪我はなかったが、バンパーがへこみ、リアウインドウのガラスが粉々に割れた。

 事故処理は後にして、とりあえず次の見学地である旧鯛の浦(たいのうら)教会へと急ぐ。1903年に木造の教会が建てられたが、1979年に新教会がすぐそばに建てられた。教会としての機能はすべてそちらに移されており、古い教会堂には一部たたみが敷かれ、本や遊び道具なども置かれていた。住民や子どもたちが自由に使っているそうだ。

 旧教会は、戦後の1949年に増築した際、レンガ造りの塔が正面につけられた。原爆で破壊された旧浦上天主堂から持ってきた、被爆煉瓦を一部使用している。教会の屋根は瓦葺きで、全体的に老朽化が目立ったが、原爆の記録を残す建物として、今後も大事に保存してほしいと思った。

世界遺産・大浦天主堂をゆっくりと見学

海堂神社の鳥居 14時20分の高速船出発までまだ時間があったので、予定にはなかった有川港そばの海童神社に立ち寄る。鳥居の後ろには、巨大なクジラの顎の骨が2本、地面に突き刺さっていた。その前で集合写真を撮った。神社のお社は階段を上ったところにあったが、みんなが急な階段を敬遠するなかで、妻は軽い足取りで上がり、お参りしてさっさと下りてきた。

 長崎港への高速船は時間通りに出港しそうだった。ターミナルにはいくつか売店があって、「かんころ餅」のとりこになった妻は、最後までひと口で食べられる餅を探していたが、残念ながら見当たらず、前の日に買っておけばよかったとしきりと悔やんだ。

 高速艇は9割ほどの乗客を乗せて、有川港を定刻に出発した。大波に揺さぶられた船上タクシーとはうってかわって船は軽快に進み、1時間半ほどで大きな造船ドックが見えはじめ、ほどなく長崎港に到着した。

 下船後、大型バスに乗って大浦天主堂に移動する。港には、外国から来たらしいホテルのようにバカでかいクルーズ船が停泊していた。その船から出てくる人々は、中国人らしいことが容姿からわかった。両側に土産物屋がずらりと並ぶ大浦天主堂までの坂道は、船から吐き出された中国人でごった返し、彼らが遠慮なく大声で話す中国語が通りを飛び交っていた。

 ところが、1,000円の入館料を嫌ってか、大浦天主堂に入る中国人はほとんどおらず、教会の前で写真だけ撮って坂道を引き返していった。大声でしゃべる中国語も聞こえず、心静かに礼拝できたのはさいわいだった。

世界遺産・大浦天主堂 1865年にフランス人司祭によって建立された大浦天主堂は、当時はまだキリスト教が禁止されていたことから、「フランス寺」と呼んでいたそうだ。その年に、浦上の潜伏キリシタンがここを訪れ、フランス人宣教師に密かに信仰者であることを明かしたという。迫害を受けてきた信者にとっては、命がけのことだっただろう。「信徒発見」という歴史に残るできごとで、だからこそ大浦天主堂は、潜伏キリシタンをめぐる世界文化遺産の柱に据えられている。

 そうは言っても、礼拝堂の中にはきらびやかな装飾はなく、著名な絵画や彫像が置かれているわけでもない。教会をただ眺めただけでは何の感動も沸きおこらない。禁教のなかで生きてきたキリシタンの生き様に思いを馳せるからこそ、静かな感動が呼び起こされるのだ。

 今回のツアーで訪ねた世界遺産は、大浦天主堂ただひとつだけだった。五島で訪れた堂崎天主堂も青砂ヶ浦天主堂も、正確に言えば「世界遺産」ではない。しかし、どの教会にもキリシタンのそれぞれの苦難の歴史があり、それらキリシタンの生き方すべてが総合されて、無形の世界文化遺産としての価値が生み出されているのは間違いない。

 五島ふるさとガイドの川口さんは、潜伏キリシタン関連の資料が世界遺産に選ばれた意義は、行って、見て、そして、話を聞かなればわからないのだと語っていた。世界遺産といえば、ただ単にあれこれと美しいものを眺めるだけと考えていた自分に反省しつつ、長崎空港から夜の便で東京に帰ってきた。(おわり)