5月27日(土) 北部観光

 奄美大島最終日も、引き続き青空のひろがる好天だった。約束の8時半を少しだけ遅れて、西さんがホテルにやって来た。ハイビスカスの花を妻に渡そうと準備していたのだが、家に忘れてしまい、途中で引き返したために遅くなったのだそうだ。

水間製糖の黒砂糖は手づくりの甘さ

美しい海 今日は、空港がある島の北部を中心にまわる予定だ。西さんは、かしゃ餅やバナナ、氷らせたペットボトルのジュースなども、わざわざ持ってきてくれた。至れり尽くせりの心遣いには、本当に頭が下がる。土曜日とあって、奄美市街地を通学する子どもはみあたらない。はじめに、みやげ物を安く売っているというホームセンター「ビックⅡ」に寄ってみたが、まだ開店時間になっていなかった。

 しかたなく車に戻り、国道58号線を西の方へ走らせると、『水間製糖』の工場が道沿いに建っている。トタン板でつくられた質素な工場からは、煙がもうもうと立ち上がっていた。なかで作業をしていた男性に断って、黒糖づくりを見学させてもらった。

 四角い鉄製の釜は、燃えさかる薪や重油のバーナーで熱せられている。その中でドロドロに溶けた黒糖を、長い柄の付いた柄杓でかき混ぜ、ときおりアクを取り除く。しぼったばかりは、さとうきびジュースでしかないが、こうしてじっくりと熱を加えていくうちに黒砂糖の成分だけが残っていく。すでにできあがった黒砂糖を取り終えた釜が置いてあり、底にこびりついた黒砂糖を指ですくい取ってなめさせてもらったが、できたてでまだ温かく、濃厚な甘さがおいしかった。

黒糖工場の作業風景

 工場の並びに事務所があって、年輩の女性が数名、角砂糖ほどの大きさに砕いた黒糖をいそがしそうに袋に詰めていた。直販もしていて、宅急便で全国に発送してくれるらしい。値段表には、500グラム入りの袋が700円と書かれていた。事務所の壁には、ここを訪れた芸能人らの色紙も張ってあったので、結構、名の知れた製糖工場なのだろうとそのときは思った。

 やってくる観光客を目当てに事務所の隣には喫茶店もあったが、窓から覗いてみると段ボール箱が乱雑に積まれていて、どうやら今は店を閉めてしまったようだ。工場でつまんだ黒糖がおいしかったので、500グラム入りの袋をいくつかおみやげに買い求めてをあとにする。

 龍郷町の海岸にそった国道を走ると、道路脇に三沢あけみの歌碑が建っていた。「奄美なちかしゃ 蘇鉄のかげで 泣けばゆきますサネン花ヨ」と「島むすめ」が大ヒットしたのは、昭和30年代終わりのころで、この歌を作曲した渡久地政は、奄美大島の出身だ。歌碑には、「作曲家 渡久地政先生 顕彰碑」と記されて、奄美大島を全国にひろげた功績をたたえている。となりの記念碑には、「島むすめ」の歌詞が刻まれているが、これは三沢あけみ直筆によるもので、なかなか達筆だ。

夢を叶えるカメ 二つの石碑のまん中あたりにボタンがあって、これを押すとスピーカーから三沢あけみの歌声が聞こえてきた。「島むすめ」を2回くり返すと、演奏は終わった。青い海をバックに、三沢あけみの歌声が堂々と響き、奄美大島を誇っているようだった。

 さらに西へと車を走らせ、奇妙な形の盆栽ソテツをずらりと展示した庭園に立ち寄る。庭園は休みだったが、勝手に入らせてもらった。西さんは、「黄金ソテツ」を探していたが、たくさん並べられた盆栽ソテツのなかには、残念ながら見つからなかった。それにしても、ソテツの形にはいろいろあるものだと感心する。どれもが丹精込めて作りあげられたものなのだろう。

別に謝っているわけではないが「あやまる岬」

謝っていないのに「あやまる岬」 車はふたたび奄美市に入り、「あやまる岬」に着いた。名瀬市、笠利町、住用村が合併して奄美市ができたとき、名瀬と笠利の間にある龍郷町は合併に加わらなかったため、奄美市は笠利だけが飛び地になるという変則的な地形になっている。

 その旧笠利町に、観光の人気スポット「あやまる岬」がある。悪いことをしてあやまっている訳ではなく、「あやまる」とは、綾織りの鞠のことだそうで、岬にある石碑は、なだらかな地形が「アヤに織られた手鞠」によく似ていることから、いつのころからか「アヤマル」と呼ばれるようになったと解説していた。

 展望台からは太平洋が一面に見渡すことができて眺めが良く、ここが「奄美十景」として観光名所となっていることがよくわかる。帰りがけに、関西方面から来たらしい団体旅行の一行もいた。

 偶然にも、昨日、出会った一人旅の青年に、あやまる岬でふたたびお目にかかった。訊くと、今日の午後のバニラエアで帰るそうだ。ただし、西さんの搭乗する成田行きとは違って、青年は関西空港行きの便に乗るらしい。

笠利灯台 今日もてくてくと歩いてここまで来て、帰りはバスに乗るらしく、バス停の時刻表をスマホに撮っていた。別れ際、昨日の「かしゃ餅」がおいしかったと西さんにお礼を言っていた。好奇心旺盛、恐いもの知らずの若さがうらやましい。

 時間は12時近くになっていた。あやまる岬からさらに北上し、奄美大島最北端の笠利岬まで行く。岬のはずれには笠利埼灯台があり、約6分で崖の上にある灯台まで行ける。上に着けば、太平洋と東シナ海を一望できる。

 岬の麓には、石でできた大きなカメのモニュメントがある。「夢をかなえる『カメ』さん」と書いてあり、隣には、浦島太郎らしき人物が立っている。このあたりには竜宮伝説があるそうだが、カメも浦島太郎もマンガのようで、竜宮伝説の信憑性が少しも伝わってこないのは残念だ。

レストランの前で 笠利岬を引き返し、昼食にお目当ての鶏飯(けいはん)を食べに行く。西さんに案内されて、「奄美リゾートばしゃ山村」のレストラン「AMAネシア」に入る。レストランの前にはプライベートビーチまであって、高級感がただようなか値段が気になったが、窓際の席に着くと、迷わず「鶏飯3人前!」と注文する。

 ビーチには、パラソルや椅子が置いてあって、若いカップルが一組だけ座っていた。あとは観光できたらしい2人連れのおばさんたちがいるだけで、食事時にしてはがらがらにすいていた。

天皇陛下も食べた鶏飯をガツガツといただく

これが「鶏飯(けいはん)」 ほどなくして料理が運ばれてきた。はじめに固形燃料のはいったコンロが置かれ、そのうえにスープの入った鍋がかけられた。お櫃に入ったご飯と、ご飯の上に載せる具が皿にわけられて3人分運ばれてきた。

 店員は、スープとご飯はおかわり自由と言って、食べ方がわかるかどうかを確かめて引き上げていった。西さんに教えられたとおり、ご飯の上に具を載せてスープをたっぷりとかけて、お茶漬けのようにして食べてみた。

 西さんやお兄さんの一臣さんの話では、奄美の郷土料理の鶏飯は、昔はそんなに有名ではなかったそうで、かつて今の天皇が皇太子時代に島を訪れたとき、とてもおいしくておかわりまでしたことで、全国的にも知れ渡ったのだという。

 鶏ガラのスープが濃厚で、たしかに天皇が食するような上品なおいしさだった。しかし、食べ方は少しも雅やかでなく、スプーンでずるずるとご飯をほおばり、お櫃が空になるとご飯とスープを遠慮なくおかわりしたが、全部は食べきれなかった。

美術館の庭で 満腹になって店の外に出る頃になって、団体客を乗せたバスが到着した。話す言葉から、どうやら中国人らしい。みやげ物屋を物色して、そろそろ帰りの時間も気になりだしたので、空港へとむかった。飛行機のフライトまでにはまだ時間があったので、田中一村記念美術館に立ち寄る。

 「日本のゴーギャン」とも呼ばれる田中一村は、奄美大島の自然に魅せられ、50歳をすぎて島に移り住み、大島紬の工場で働きながら絵を描き続けた。数々の作品が発表され、世間の評価を得たのは、一村が69歳で亡くなってからのことだった。絵を一つずつ見て回るだけの余裕はなかったので、入口まで行って売店の絵はがきをながめて、一村の作品を鑑賞したことにする。

 空港に着くと出発までは時間があったので、出発ロビーの売店でゆっくりとみやげ物を見て回った。西さんの乗るバニラエアはさらに1時間以上あとだったので、ロビーで最後のごあいさつをして、ここで別れることにした。別れ際、売店で買ったお菓子などを持たせてくれて、最後まで本当にいたせりつくせりの人だ。

 思いつきから始まって、楽しい旅ができたのも、西さんがいろいろと世話してくれたおかげだ。また機会があれば、西さんのお兄さん一臣さんのお宅もおじゃましたいと思いめぐらせながら、奄美大島を後にした。(おわり)

2件のコメント

  1. 西 新三郎

    黒田さん
    お久しぶりです。素晴らしい回想録(?)で、また一緒に旅している気分になりました。
    今度は1週間、イヤ、1か月か1年奄美を堪能してもらいたいですねぇ~。
    時間が取れそうならいつでも連絡ください
    先に行ってお待ち申し上げます。

    • お元気そうで何よりです。
      お誘いは、妻に伝えておきます。

      コロナが流行る前の年に五島列島にも行きました。
      東京に居ながらにしてまたひとつ、訪れた世界遺産が増えてうれしい限りです。

      https://blog.kuroda-home.net/gotou/

      ご覧ください。

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奄美大島旅行記2017

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