5月6日(月)アブシンベル~アスワン

 早朝5時という驚くべき時刻に出発するアブシンベル行きの飛行機に搭乗するため、この朝、というか夜中の「モーニングコール」は、なんと午前2時だった。
 昨夜は、猛烈な疲れと時差ボケで、レストランの食事が終わって、9時には意識もうろうとするなかでベットに倒れ込み、電話のベルの大音響に飛び起こされるまで熟睡できた。

なんと「自由席」もあったエジプトの国内便

 あたりがまだ暗い4時にカイロ空港に到着した。この空港にきのう来てからまだ24時間たっていない。ホテルでもらった「ボックス」と呼ばれる弁当には、パンや果物、チーズ、ヨーグルト、ジュースなどが入っていた。

ねぼけまなこでリンゴをかじる 昨日、満腹になるまで食べたのに、一晩寝るとそれなりにハラはへるものだ。空港へむかうバスのなかで半分、空港で残りを全部をペロリとたいらげた。
 さらに、飛行機が空港を飛び立つとすぐにパンと熱いコーヒーの機内食が出てきて、これもすべて食べる。国内便のわずか2時間半ほどのフライトでも軽食はきちんと出てきたのには、エジプト航空ながら感心した。

 飛行機が無事離陸すると自然に目が閉じる。やはり眠い。時差ボケなのか、寝不足なのか。疲れもずっしりとたまっていて、どこかでゆっくり寝ていたい。が、寸暇を惜しむ団体ツアーには、そんなことは許さるはずもない。

 飛行機の窓から外を見ると、地平線がようやく赤く輝きだしていた。今回のツアーは、カップル6組と個人1人の13人で、それと添乗員の高橋氏が日本から随行していた。高橋氏は、むかし日本テレビの海外取材番組のディレクターをやっていて、16年前にJALの添乗員に転職したそうだ。マスコミとのつながりがいまでもあって、海外取材クルーの担当などもするらしい。エジプトとは30年来のつきあいだそうで、早稲田大学の吉村作治教授も旧知の仲だそうだ。鼻の下にたくわえたヒゲも、吉村氏ばりだ。

 飛行機は、アスワン空港にいったん着陸する。そこでは、白人の旅行客が何人か乗ってきた。みんな席の番号も確認せずに、来た順番で前の方から座っていき、「そこあいてますか?」(たぶん英語で)などと尋ねたりしている人もいる。聞くと、アスワンからアブシンベルは「自由席」らしい。もちろん、立ち乗りはできない。

 7時15分にアブシンベル空港に到着。ひどく小さな空港ビルと管制塔で、日本のローカル空港を思わせる。空港で待機していたエジプト航空の専用バスに乗ると、10分ほどで神殿の入口に到着する。強い日差しに照りつけられて、まだ朝の7時を過ぎたばかりだというのにじりじりと暑い。

 入口にはすでにたくさんの人たちが列をつくっていた。あとで聞いてみたら、飛行機の他にも、アスワンからのバスツアーがあって、ここまで3時間ほどで来られるらしい。現地ガイドのナセル氏からアブシンベル神殿のガイドをひと通り受けたあと、1時間半の自由行動となる。

アブシンベル神殿のスケールの大きさに圧倒される

 巨大な像が建ち並ぶアブシンベル神殿は、1813年にスイスの探検家ルードヴィッヒ・ブルクハルトにより発見され、1817年にイタリアのジョバンニ・ベルツォーニによって発掘された。しかし、歴史的には貴重な建築物も、エジプト近代化の波には勝てなかった。アスワンハイダムの建設によりナセル湖の水位が上昇し、アブシンベル神殿はあわや水没の危機に見舞われたという。

 どうやらエジプト政府がアブシンベル神殿の歴史的価値に無頓着だったようで、こんなものは沈んでもかまわないと思っていたらしい。そのことを知ったユネスコがあわてて、3600万ドルの巨費を投じて移設工事に踏み切った。その工事が信じられないくらい大がかりなもので、神殿を約20トンのいくつものブロックにカッターで切り刻み、ブロックを元の場所から約110m上方に持ち上げ、パズルのようにしてふたたび組み立てるという、途方もない作業が延々と繰り返された。すべての工事が終了したのは、着工から6年がたった1968年だった。

 こうした歴史に残る大事業があったからこそ、アブシンベル神殿は、その後、ユネスコの「世界遺産」に登録され、今では世界中の人たちが訪れている。それまで現地の人はだれも大事に扱わず、水没の憂き目にあったアブシンベル神殿を、移設工事が世界的に有名にさせ、今ではエジプトの重要な観光資源となっているというから、エジプト政府には先見の明がなかったということか。

アブシンベル神殿 実際に神殿の前に立つと、よく6年で移設できたものだと思うほど巨大だ。人々を圧倒するスケールの大きさには、ラムセス2世の権力欲や、古代の人たちの尽きることのないエネルギーを感じる。日差しの強い青空に映えて、神殿の石像がゆるぎなくみずからを誇示しているようだった。

 着いた頃はたくさんいた観光客も、アスワンから来たツアーのバスの出発時間が近づいたのか、しばらくすると潮が引くようにまばらになっていった。地元の女性たちが子どもを連れて遊びにきていたので、妻が写真のモデルになってくれないかとたのんだが、にべもなく断られた。やはり、人前で顔をさらすのを嫌っているのだろうか。
 ただ、後々考えると、お金を出せば写真を撮らせてくれただろうと思う。現地の人にとっては、すべてがお金であることを、ツアーがすすむとともに理解することになる。

 神殿のあちこちをひととおり見学し、10時にふたたび空港行きのバスに乗る。すでにアスワン行きの飛行機は「自由席」だと知っていたので、バスを降りると、いい席を確保しようとみんな先を争うように搭乗口へむかうのだった。

軍事施設として警戒厳重なアスワンハイダム

アスワンハイダム湖

 11時45分にアスワン国際空港に到着する。少し早く着いたので、昼食の前にアスワンハイダムの見学を済ませておく。アスワンハイダムの全長は3.8キロで世界一の規模をほこる。旧ソ連政府の資金・技術両面の援助によって建築された。ダムのゲートには、銃を持った兵隊とも警察とも見分けがつかない屈強な男たちがたむろしていた。電力発電の重要施設であるダムは、エジプトでは軍事施設に等しいそうで、警備も厳しいらしい。

 警備はきびしいが、ゲートをくぐると、芝生の広場では、子どもたちをふくめ、たくさんの人たちがごちそうをひろげて楽しんでいた。聞くと、今日は、キリスト教の祭日で、エジプト全体が休日とのことだった。子どもたちは、この日、みんな精一杯のおしゃれをするそうだ。たしかに女の子の姿は、どの子も華やかさを競い合っているようだ。

 バスを降りて、10分間の写真タイムとなったが、格別写すような景色もなく、車外にいると、焼け付く太陽に耐えられなくなり、早々にバスに引き上げてくる。今日の気温は、38度あるという。午後になってから、ぐんぐんと気温があがってくる。この時期のエジプト観光は、暑さとのたたかいなのだ。

切りかけで止まったオベリスク

 その後、「切りかけのオベリスク」へ。完成すれば43メートルという世界最大のオベリスクの制作に失敗したところだ。ここはあまりおもしろくない。というよりつまらない。昼食は、アスワン市内の「バサマホテル」のレストランでバイキングとなる。

 高橋氏に、ナイル川でとれた魚がうまいと聞いて試してみたが、何かの魚の薫製はえらく塩辛かった。別の魚は塩味もほどほどで、なかなかおいしかった。その他、牛肉、マトン、チキンとすべて試し、デザートにはハチミツ漬けのひたすら甘いケーキまですべてたいらげ、満腹になり満足する。アフリカでは、一日に数え切れない人たちが餓死していることを考えると、もちろん自分だけ脳天気に満足もしていられない気持ちもあった。

神々の像が傷つけられ痛々しいイシス神殿

イシス神殿

 午後からは、時間の余裕があるというので、ツアーのコースを少し外れて、フィラエ島のイシス神殿へむかう。入場料を払うと、船に乗って島に渡る。船とは言っても、20人も乗ると満席になる、船外機付きのものだ。船着き場には、そんな粗末な船が数十艘も停泊していて、桟橋では何人もの男たちが仕事もなくぶらぶらしている。これで稼ぎになるのだろうか。

 めざとく私たちを見つけた地元の子どもたちが、さっそく土産を手にして近づいてきた。船に乗ってからも、「船内販売」とばかり、どこからか商売品を取り出してきて、客にあれこれと売りつける。エジプト人は、金もうけにはことのほか熱心だ。

 神殿に着くと、5人ほどの観光客がいるだけで、あたりはひどくひっそりしていた。この神殿も、ユネスコによって、水没の運命を逃れたそうだ。イシス神殿はギリシャ時代のものだそうだが、神殿に彫り込まれた神々の像は、7割がたが明らかに故意に傷つけられている。偶像崇拝を拒否するイスラム教徒の仕業なのか、その姿が痛々しい。

傷ついた遺跡

 神殿を一回りして帰る頃になると、大勢の外国人の観光客が神殿に入ってきていた。一行は、アブシンベルで見たヨーロッパ人の団体らしかった。たぶん、アブシンベルからのバスが、この時間に着いたのだろう。

 帰りの船では、予定した船が故障で取り残されたというオランダ人の6、7人のグループと相乗りになる。話しているオランダ語は、ドイツ語によく似ているので、学生時代にかじったことのあるドイツ語を話してみたら、残念ながら発音が悪いのかまったく通じなかった。学校で習ったことは、ほとんど社会で役立たない。

これが『最後の晩餐』になってしまうのか

 16時にバスを降りて、アスワンのホテルへむかう。島の中にあるホテルまで、「ファルーカ」と呼ばれる帆を張った小舟で移動する。このあたり特有のファルーカという乗り物だ。船着き場には、3人のヌメア人の若い男たちが待っていて、そのうち1人は、まだ中学生くらいの子どもに見えた。ガイドのナセル氏によると、彼らは、2人の兄弟と、その叔父だそうで、下の弟は、アルバイトに来ているらしい。

 彼らは、はじめはごく普通にズボンとシャツを着ていたのだが、船に乗る前に、ガラベイヤという民族衣装を頭からすっぽりとかぶると、なかなか板に付いた姿になる。3人のチームワークで帆と舵を巧みにあやつり、船はナイル川をゆったりとすすんでいく。帆の向きを変えて、船を旋回させたり速さを変えたりして、客たちを楽しませてくれる。

ナイル川を行くファルーカ

 ホテルのある岸が近づいてくると、帆をするするとたたみ、船を岸に着ける。停まったかと思うと、叔父と兄弟は「船内販売」をはじめる。土産を取り出してきて、船のまん中にひろげる。鹿の骨のペーパーナイフが10LE、その他、ネックレスなどを熱心に売りつける。いかにも手作りといったペーパーナイフに人気が集まり、1人が買うと、みんなつられるように買い始めた。

 彼らにとって見れば、商売の水揚げは大切な収入源なのだろう。空港やホテルで買うよりも、ここで彼らの商売に協力してあげたほうがいいのではないかとも思ったが、兄弟がすすめるペーパーナイフが、どうしても10LEもの値打ちを持っているように見えなかった。申し訳なかったが、結局、なにも買わなかった。

 16時30分にバサマホテルに入った。少し休憩して、夕食へ行く段になって、妻は、食欲がないといいだす。というよりも、昼食を食べ過ぎたらしく、夕食はパスして、早々にベットで横になってしまった。暑さに疲れたこともあるのだろう。

 しかたなく、一人でホテルのレストランに行って、きのうのホテルと同じように食べ放題の料理をいただく。ここまで来て一人きりで食べるのもさびしいので、ツアーに単独参加していた男性に同席させてもらった。男性からは、かつて旅行した国のことなどを伺いつつ、男二人ではそんなにおいしくもない食事をビールを飲みながら口に入れた。

 結局、この夕食を最後にして、その後まるまる2日、満足に食事もできずに、七転八倒の苦しみを味わうことになるのだが、そんな不運は予想できるはずもなかった。

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