9月12日 シェーンブルン宮殿

シェーンブルン宮殿からベルヴェデーレ宮殿へ

学友教会ホール 今日は1日、ウィーン市内の観光となる。ベルヴェデーレ宮殿にほど近いホテルを8時15分に出発した。栗田さんという年配の男性ガイドがバスに乗り込み、景色を説明しながら、音楽の都ウィーンの概要をいろいろと説明してくれた。

シェーンブルン宮殿はベルサイユにならぶ豪華さ

 世界的に有名なウィーン・フィルハーモニーの本拠地、楽友協会ホールでは、毎年、ニューイヤーコンサートが開かれる。チケットの入手は困難で、1枚80万円ものプレミアがつくという。ウィーンでは寿司ブームになっており、市内だけで何百軒も寿司屋があるという。栗田氏は、市内を移動するときは、タクシーが安くて絶対に安全だということも教えてくれた。

シェーンブルン宮殿をバックにして 最初に訪れたシェーンブルン宮殿は、皇帝レオポルト1世が17世紀初頭に建設を開始し、その後、マリア・テレジアによる大改築を経て、現在の宮殿の姿が完成した。ベルサイユをしのぐ宮殿をめざしたそうで、1,441の部屋、139の台所を持つ建物はもちろん、四季の花々が植えられた広大な庭園も、どこかベルサイユ宮殿を想起させる。
 マリアの末娘であるマリー・アントワネットは、15歳でルイ16世に嫁ぐまでこの宮殿で育った。1996年にユネスコの世界遺産に登録されている。

 ここでは、約1,400のうちの40部屋を見学する「グランドツアー」に参加した。はじめに入った「ベルグルの間」は、通常は一般公開していない私的な部屋だ。時間になると、私たちツアーの見学だけのために、係員がわざわざ鍵を持ってきて扉を開けてくれた。

広大なシェーンブルン宮殿の庭園 中に入ると、ボヘミア出身の画家ベルグルに描かせた南国の風景がひろがっていた。ガイドの栗田氏は、寒いウィーンで南国へのあこがれがあったのだと解説した。南国の花や果物、クジャク、なぜか人間の顔に似ている犬や猿などが描かれた4つの部屋が続いていた。

 その後、衛兵の部屋、ビリヤードの間、謁見の間、クルミの間などに入り、豪華な調度品をはじめ、ベネチアングラスやボヘミアングラスでできたシャンデリアなどを見て回った。
 シェーンブルン宮殿に住み、シシーの愛称で市民からも親しまれていたエリザベートは、オーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と16歳で結婚した。息子の皇太子ルドルフは、ファシズムが台頭するなかで少数民族を弾圧する父親に反発し、17歳でピストル自殺してしまう。それを嘆き悲しんだエリザベートは生涯、喪服を着て生活していたそうだ。エリザベートはサラエボで暗殺され、時代は第1次世界大戦へと突入する。

体型維持のためエクササイズに精を出していた皇后エリザベート

庭園をバックにして そんな悲劇の皇后エリザベートも、宮殿では美の探求には余念がなかったようで、毎日、3時間かけてエクササイズに励んでいたという。部屋にはぶら下がり健康器のようなものがあったし、化粧室には体重計も置いてあった。身長160センチで体重が120キロあったと噂されるマリア・テレジアにくらべて、170センチの長身だったエリザベートの体重は50キロを超えたことがなかったというから、よほど体型には気を使っていたのだろう。
 家族の食卓には、ボヘミアングラスが置かれていた。食器は銀でできており、銀のスプーンは毒物に反応し、毒殺から身を守るとされていたらしい。

 長さ40メートル、幅10メートルの大広間は、舞踏会や晩餐会の会場となった。「会議は踊る。されど進まず」の言葉で知られるウィーン会議は、この大広間で1814年から15年まで開かれた。左右対称のバロック様式で天井にはだまし絵が飾られている壮麗な大広間は、今でも公式のレセプションに使用されている。
 宮殿にはマリア・テレジアの結婚式の絵が飾ってあって、群衆の中にモーツァルト父子が描かれているという。しかし、モーツァルトはこの時すでに死んでおり、実際に結婚式に参加するのは不可能だと栗田氏は解説した。

ウィーン市内の風景 ルガール王国の細密画を丹念に壁にはめ込んだ「百万の間」や、巨大なゴブラン織りが飾られている「ゴブランの間」、金糸で織られたマリア・テレジアのベッドが置かれた寝室など、これでもかこれでもかと贅を尽くした部屋を見て回り、宮殿の裏にある庭園に出た。
 ちなみに、これら豪華な部屋はすべて宮殿の1階にあるが、驚いたことに2階から上は公務員宿舎になっていて、ウィーンで働く一般の国家公務員のみなさんが普通に暮らしているそうだ。「狭い、汚い、古い」の三拍子揃った宿舎に押し込められ、それでも厚遇だと批判されている日本の公務員とはえらい違いだ。

 庭園のガイドはなく、約30分間の自由行動で勝手に見学する。ガイドの栗田氏は、さっさと入場門へ引き返していったが、くわえタバコで庭園を歩き、挙句の果てにタバコを庭園にポイ捨てした。スーツにピンクのネクタイを締め、鼻髭を生やした姿はかなり怪しげだったが、マナーの悪さには呆れてしまった。

オーストリアとオーストラリアを間違える欧米人

オペラ座の前で 10時40分に宮殿をあとにする。私たちが門を出る頃には、人で溢れかえっていた。バスに乗り、ベルヴェデーレ宮殿へとむかう間、ふたたび栗田氏のオーストリアガイドがはじまる。現在、新しい駅を建設中だが、こちらの労働者はあまり働かないので、いつ完成するのはわからないと言う。オーストリアとオーストラリアは発音が似ているので、意外と英語圏の人が混同するそうだ。だから、オーストリア人は、”No kangaroos in Austria.”(オーストリアにはカンガルーはいない)と説明するのだそうだ。そういえば、そのフレーズが書かれたTシャツが、あちこちのみやげ物屋に置いてあった。

ベルヴェデーレ宮殿をバックにして そんな解説を聞いているうち、11時すぎにベルヴェデーレ宮殿に到着した。宮殿の前には池があり、その池を花が取り囲んでいた。入口から階段で上がったところにある大理石の間からは、旧市街中心部にあるシュテファン聖堂が見えた。高い天井にはフレスコ画が描かれていた。
 宮殿内部は、オーストリア絵画の美術館となっており、オーストリアが生んだ世界的な画家グスタフ・クリムトの作品が数多く展示されている。

 19世紀末から20世紀にかけて活躍したクリムトは、女性の裸体や男女の性愛など官能的な作品で知られるが、実は数多くの風景画も残している。こちらの美術館にあるクリムトの絵の4分の1は風景画だという。14歳でウィーン美術工芸学校の入学し、その後、数々の作品を発表し、ウィーンを代表する画家となった。代表作「接吻」が1908年にウイーン総合美術展に発表されてわずか10年後に、当時、猛威をふるっていたスペイン風邪にかかり、56歳の若さで亡くなっている。

ベルヴェデーレ宮殿の全景 その「接吻」を拝見することが、今回の旅行の一つの目的でもあった。日本にいてはおそらく絶対にお目にかかれない名画だ。その作品は美術館の2階にひっそりと飾ってあった。金色のマントに包まれ、今にも唇をかさねようとする男女の姿が、まさに官能的に描かれていた。クリムトは正方形のキャンバスを好んで使ったそうだが、「接吻」も縦横とも180センチの大きさの絵だ。

金箔で描かれたクリムトの名画「接吻」に見入ってしまう

接吻 栗田氏の解説では、金色の部分は本物の金箔を張ってあるそうで、日本画の琳派の影響を強く受けているのだという。クリムトには金箔を多用した時期があたったそうで、その時代がまさにクリムトの「黄金時代」なのだという。極楽浄土を再現しようとした平泉中尊寺の金色堂のように、「接吻」が金箔で描かれているのも、クリムトが永遠の愛を表現したかったのではないかとも語った。

 ただ、二人の足元は崖っぷちとなっており、崖下は死の世界を表現したともされる。よく見ると、女性の足は崖から飛び出してしまっていて、接吻を交わす二人の愛の危うさも感じとれる。
 と、このようにいろいろと御託を並べても、絵の魅力はとても表現できない。ここに来て、実物をご覧いただくしかない。

女性の顔をしたスフィンクス さて、館内の2、3階には、その他、エゴン・シーレをはじめオーストリア出身の画家たちの代表作品が展示されていたが、わずか半日の観光では、これらの作品をゆっくり鑑賞する時間的余裕もなく、大急ぎで館内を回り、帰り際にショップで「接吻」の絵はがきを購入した。

 美術館の裏には広大な庭園がひろがっており、あらためてここが宮殿だったことを思い出した。庭園にあるスフィンクス象は、ライオンの胴体に翼が生えており、しかも、頭は人間の女性だ。栗田氏に言わせれば、「最強の動物」だそうだ。たしかに女性に勝る生き物はいないとしみじみ考えた私が、思わず「こわー」とささやいたら、ツアーの女性たちからいっせいににらまれた。

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